ばたログ「それって丁度いい塩梅?」

~体感に耳を澄ます日々のヒント~

完璧さのメリットとデメリット

随分と長い事、世に出るには完璧でないといけない。そう漠然と思っていた節がある。
 
完璧である。100点である。立派である。かっこいい。美しい。成果を残している。人から認められている。稼いでいる。

そう感じさせる人たちを見上げて、または遠くから見ていて、知らず知らずのうちに自分にダメ出しをし続けていた。
そうして何事もなさなかった時期が続いた。ふりかえれば、いかにももったいなく、非生産的に見える過去だ。
 
例えば、
 
おさない頃から色々自作する事が好きだった。オリジナルの童話を書いたり、詩を書いたり、絵を描いたり、曲を作ったり。そうしていればいつかはアーティストになれるとぼんやり思っていた。「ああ、もっとちゃんとできるようになってから。。。」そう思い書きためたノートはだんだんと日に焼け色あせていった。時々コンテストに応募し入賞した時期もあったが長く積み重ねる事はなかった。
 
テニスにはまっていた頃、コーチとダブルスのパートナーについて話した。
 
上手くもない、体力もない、足も遅いが、ああだこうだと「理想のパートナー像」を語るわたしに
「そんな人いないよ。普通に大人のマナーがあれば成り立つでしょう?」とコーチは笑って言った。結局、固定パートナーはいないまま、ダブルスも下手なままだった。
 
職場で出入りの営業さんと将来どんな人と結婚したいか話していた。
 
まだ年若かったわたしは自分の事は棚にあげて、「ものすごく運のいい人がいいなぁ。」などと言っていた。
「それはなかなか難しいかもね。でも、ふたりで暮らせば生活はなんとかできるもんだよ。」と言われた。しかし口ばかりで、その後、具体的に行動しなかったものだから、人生を共に歩みたくなるような人はなかなか現れなかった。
 
コーチングのコーチの勉強をはじめた頃も、「もっと完璧にスキルを身につけないと。」「立派な名刺やホームページを用意しないと。」「大勢きらびやかな経歴の人たちが活躍しているのだから、わたしなんて。。。」と足りない部分にばかり目を向けていていた為、少しでも力をつけようとし有料無料問わず、様々な講座をやたら受けていた。もちろんインプット過多、アウトプット極少。
 
そんな事の繰り返しで人生は流れていき、ずっと積み重ねのない自分を頼りなく思っていた。
 
こどもの頃は、ごくごく自然にもっと立派な大人になっているはずだと勝手に思っていた。しかし、なってないし、これからもならないだろう。(なるつもりもないが。)
 
ところで、色々言い訳しつつ無意識に目指していたあの「完璧であろうとする私」のメリットはなんだろう?
 
一見、良さそうに見える。なんとなく格好がつく。そんな自分にちょっと安心できる。周囲から努力家と評価してもらえる。というところが精々か。
 
反対にデメリットはなんであろう?
 
たとえば、仕事において完璧を目指している時にわたしに起こる事はいくらでも列記できる。
 
  • なかなか完成しない
  • いつまでたっても人に見せられない
  • いつも時間に追われる
  • 肩に力が入っている
  • 呼吸が浅い
  • 自分には難しいと思う
 
だから、疲れるし、いつまでたってもゴールの線を踏めないのだ。物理的にも精神的にも目的地に辿りつけない。
 
しかし、今だから分かるが、自分以外のひとたちは、そんな事は知ったこっちゃないのだ。よって、んな事、うだうだしたり、考えている場合じゃないのだ。
いつだって、何にもなくても、自己評価が実力0点でも資金0円でも、はじめに手をあげた人が、はじめの一歩を踏み出した人がチャンスをつかむ。
 
最初から完璧さを求めていると、様々な好機を逃してしまう。わたし自身は、様々な失敗を数多く繰り返した後、「ま、いいや。」「ちと荒いが、概要が分かるからいいだろう。」「目鼻ついたから、まずは作業をはじめよう。」と動けるようになった。随分楽だし、得るものも増えた。なにより自己評価が上がった。
 
本一冊ですら、「一字一句もらさず完璧に理解できるよう読もう!」と思うと手に取る事すらしなくなる。美しくなってから社交界にデビューしようと思うのならば、ダンスレッスンの教室にも顔を出せないまま、光陰矢のごとしを実感するはめになる。
 
もうわかっているから、いや、わかっているからこそ、何度も言おう。
 
とにもかくにも即行動。中途半端でもいいからはじめて、ひとに見せる事。完璧さを求めるのはそのずっとずっと後だ。
 
そもそも実は、完璧な人などいない。完璧に見える人がたくさんいるだけだ。